[本]山本周五郎
ある個人の全集というものを見て、全部読んでしまう気になったのは山本周五郎がたぶん最初だった。高校生のときである。高校の図書館の本だった。はじめは、予定調和でわかりきった救いのある話を書くんだなと的外れなことを思っていた。そのうち、そうではないことがわかってきた。「さぶ」、「天地静大」、「ながい坂」・・・
直木賞に始まり文学賞を断りまくった山本周五郎はそのうち読まれなくなる日が来るのだろうか。今のところ、その気配はなさそうだが。
さて、学会賞というものがある。学会が、この研究はすぐれた研究ですといって誰かを表彰するものだ。実際には学会が審査員を選んで、その審査員が決める。この審査員は苦しい(憲法で禁止された苦役ではないかとよく思う)。これが学問的評価なのかー他人にどれだけ役立ち、ショックを与え、後の人が乗る肩になることが評価だったのではないのか、というような声はよく頭の中で連呼される。山本周五郎なら、お前たちが俺の作品を評価できるのかい、とかいいそうな気がすることも連日だ。
賞には賞金がついていることがある(あるときまで賞金こそ賞の本体だということになっていると思いこんでいた)。私も高給取り(私の同業者にはほとんどいないだろうが)ではないので、賞金はときには非常にうらやましい。私が会員である学会の1つには、中堅と若手がもらえる(年に2人まで)賞金30万円の賞がある。この賞は申請(のような)手続きが必要で、私はしたことがないのだが、30万円か・・・とは気になっていた。しばらく前に、私はもうこの賞の範囲からは外れていると(複数の(いわゆる)有力会員から)言われたときには、30万円分の本が、カメラが、双眼鏡が、レンズが、タイヤが、だれかに持ち去られたような気がした。
賞については、どうみても決算はいまのところマイナスだ。いろいろな学協会が賞を新設するのに立ち会ってしまったときにも、賛成ではないと言ってはいるものの、うまく抵抗できたためしがない。たぶん方向性がよくないのだろう。”どうも賞という物は・・・”などとうじうじ感いっぱいではなく、”穏健な提案”(modest proposalですね)で行かなくてはだめなのかもしれない。考えてみることにする。
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