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2004.05.29

[九大]一見の価値ある

 古い大学には昔の建物があって、その大学にとっては由緒あるものだったりするが、とくに建築にかかわっているわけでもない普通の人が見ておもしろいとは限らない。ところが、九大箱崎キャンパスには、一部の市民にも親しまれた、印象的な建物がある。工学部の航空である。この建物は、外から見ても(とくに上の方)中がどうなっているのかはなかなか想像しがたい。
 この航空の筋向いには、直角とかでなく中途半端な角度で廊下が折れ曲がっているところが数箇所ある理学部の建物もあるのだが、こちらは、よく見ないと、不思議さはわからない。

 同じ組織に属する隣接した建物は、大体、直角か平行に建っているものだが、九大箱崎キャンパスにある理学部1号館(別名、本館)と2号館はそうではない。この2つの建物は2箇所でつながっている。中央部同士を渡り廊下(と勝手に呼ぶ)で、東の端(箱崎で言う南)も建物があってつながっている。
 ところが、1号館と2号館は平行ではなく、おそらく10度か15度くらいの角度を成している。わりと大まかな地図で見ても平行でないことがわかるくらいの角度である。飛行機から確認しようと思ったこともあるが、福岡空港への着陸時はあまりに理学部の真上で低空を通るので確認はむずかしい。

 平行でない理由は、2号館が工学部の基線によっており、1号館は農学部の基線によっているためらしい。

 次に理学部1号館と2号館をつないでいるものはどうなっているのだろうかと、考えるのは当然だろう。これも割合、複雑である。平行でないから、少なくとも1箇所では90度でない角度で曲がっている箇所があるはずである。中央部同士をつなぐ渡り廊下では90度でない部分は1つだけだが、東側のつながっているところではもう1つ、つまり2箇所なのである。こちらは地図ではわからないだろう。

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[九大]箱崎付近の方角

 九大箱崎キャンパスにはいくつかの門があるが、その中でもバス停の名前にもなり、警備員詰め所も一応ある、いわば主要な門の1つが北門である。国道3号線に面している唯一の門でもある。だが、この門は、九大の門の中でもっとも北の方にあるわけではない。はるか北に貝塚門(これもなかなかメジャーな門)があるし、中門や農学部門はほとんど同じくらい北だ。むしろ、地図を見れば北門は西門と呼ばれるべき場所にある。なぜ、西門ではなく北門なのだろうか(実はあまりポピュラーではないが、西門と言う門もある。だが、この門よりも北門の方が西にある)。
 箱崎小学校と東箱崎小学校もそうだ。東箱崎小学校は、箱崎小学校のほとんどはかったかのように北にある。
 ある程度、九大箱崎キャンパスにいた人ならとくに不思議とは思わないかもしれない。この地帯では、地図で言う北は東と呼ばれ、地図でいう西が北と呼ばれているからである。90度ずれているわけである。長く九大箱崎キャンパスで生活している人と話すと北(JR鹿児島本線はほぼ南北に走っている)を西と言うのがむしろ普通であり、とまどうことがある。南は西と呼ばれ、東は南と呼ばれてきたはずだが、北門と東箱崎小学校の2つのような明快な証拠には出会っていない。
 ”東は南と呼ばれてきた”と書けば、古代史が好きな人なら、「邪馬台国!」と叫んでもおかしくない。あの邪馬台国(三国志での表記はむしろ邪馬壱国)が近畿地方にあったというのは有力な仮説だそうだが、その難点として九州北部付近から邪馬台国に行くのに南に行くと三国志に書いてあることがある。九州に邪馬台国があったという仮説からすると、方向を90度もまちがえるわけないだろう、ということになるのだが、南は東の書き間違いだという仮説も実在する。
 だが、九大箱崎キャンパス付近では上記のような証拠もあげたように「東は南と呼ばれてきた」と考えられる。この九州北部で方角の呼び名を実地調査した結果を邪馬台国所在地比定と結びつけた研究者がいないのも謎である。1945年の敗戦(だれに負けたのですか? という質問があったので書いておくと、日本[そのころは帝国]がアメリカとか中国とかもろもろの連合国と呼ばれる国々に負けた)まで、北部九州の考古学的な遺跡が激烈に軽視されてきたこととは、まさか関係はないだろうが(ここも、本当に軽視されてきたのかという質問があったので、激しかったと本には書いてあるとお答えしておく、中山平次郎九大教授が調査していたころですね)。

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